2015年8月27日木曜日

頭だけで解決することの落とし穴

皆様、ご機嫌いかがお過ごしでしょうか?
昨日8月26日はマザー・テレサのお誕生日だったそうです。
私のスマホにはちょっとしたおまけ機能がありまして、ケータイ本体を振るとケータイの「中の人」が喋る機能がついています。
うっかり振ったら中の人、(長くなりますが・・・と前置きした上で)マザー・テレサの名言を読み上げ始めました。

『思考に気をつけなさい、
          それはいつか言葉になるから。 ・・・(段落A)

言葉に気をつけなさい、
          それはいつか行動になるから。 ・・・(段落B)

行動に気をつけなさい、
          それはいつか習慣になるから。 ・・・(段落C)

習慣に気をつけなさい、
          それはいつか性格になるから。 ・・・(段落D)

性格に気をつけなさい、
          それはいつか運命になるから。』・・・(段落E)

もう真夜中にも関わらず、私、不覚にも心を激しく揺さぶられ、ぶはッと奇声をあげてしまいました。ああ、本当に深く染み入る言葉です。

ぐうの音も出ないほど説得力に満ち、納得できる言葉ですが、以前の私ならば
「えーと、いま行動を変えたいわけだから、じゃあ逆算して言葉と思考に気をつければいいんでしょ」とやっていたと思います。自分の課題が段落Cにあるから、段落AとBをクリアすればよいのだ・・・と。

上記の名言を図式化して、それに従った場合ならこれは「正しい」やり方だといえるでしょうが、そういうもんじゃないなぁ、と今は思います。

例えば、言葉に気をつけて1日100回「ありがとう」と言ったって、果たして本当に他人に感謝ができるようになるだろうか、という疑問が生まれます。
個人差はあるでしょうが、仮にエネルギーのこもっていない口先だけの「ありがとう」を100回言う習慣は根付いたとしても、果たして人に感謝できる性格になるかどうか・・・
気持ちのこもった「ありがとう」を1回でも伝えられたら、その人はもう既に「感謝できる人」なのだと思いますが
こうした図式化したパターンから外れたものが規格外のものとして、「失敗」扱いされる可能性が高くなります。それが人間であったとしても。

頭だけで解決することの落とし穴は、こんな感じであらわれます。
ご参考になれば幸いです。

2015年8月19日水曜日

自分と向き合った先にある解放

皆様、いかがお過ごしですか。
サイン3連発がありましてね、ちょっとびっくりして。
たまたま買い物をしたコーヒー屋さんが「TERA」で、別の場所でふと見かけた看板が「スタジオ テラ」、この日初めてお会いした方も「寺田さん」。
キーワード「てら」。これが1時間くらいの間に続いたので、鈍い私でもさすがに気づいたんですが、意味するところがちょっと分からないんですね。単位のテラか、地球のTerraか、寺に行けという事なのか。
なので、もっと私に分かるように教えて、と”上の方々”にリクエスト中です。
あっ、こういう時にキレても大丈夫ですよ。わかんねーよ、分かりやすく言いやがれ!とかね。それでバチが当たるとかありませんからね。

何かのサインとかお知らせがもっとズバーンと来ればいいのに、とは常々思っているのですが、それだけ見逃してしまいそうな程に、変化というのもまた自然な事なのかもしれません。
自分にとってのテーマの移り変わりどきも、はっきり分かるとは限らない。むしろ後から「そういえば、あの頃から何か変わった感じだなぁ」と気づく事が多いように思います。

”自分を癒す”ということを考える時に、私にとって避けて通れない最重要テーマが「家族への思いを癒すこと」だったのですが、ここへきて心の平和が訪れています(今は別のテーマについてやっとります)。
「赦す」なんて尊いものではなく、ただ気にならなくなった、そこに囚われなくなったというだけの話ではあるけれど
感情に向き合い、膿み出しがすすんだおかげで「家族にも愛されなかった、不幸な私」という認識を、自然にずいぶん切り離せたと思います。
これからも揺り戻しはあるかもしれないし、昔の恨みつらみがひょっこり顔をだすこともあるだろうけど
もし、この平穏が得られると最初からわかっていたら、”鉄板の蓋はがし”もそんなには恐くなかったかもしれません。

この鉄板で蓋をした中身にしたって、元はと言えば見るのも辛すぎてフタをしちゃったわけですから、いかに自分をレスキューするためとは言え、そこを見るのはやっぱりしんどい。時が経ってもしんどい。
だから、自分と向き合う作業は楽しいばかりとも言えず、時間もかかると思います(これについてはかける「べき」だと強く言いたい)。
その途中には痛い記憶や感情も出てきちゃったりして、のたうちまわっちゃったりして。
でも、そうした未処理の感情を感じつくして出しつくしたその報酬は・・・解放される、揺らがない自分軸ができる、といったところでしょうか。
・・・うーん。なんだかなぁ、地味なごほうび、って感じはしますね(汗)

いずれにしても、「自分と向き合う」。これだけでもう、立派なセラピーなんですよ。
すぐに人生が上手くいくような華麗な魔法とは言えないですが、少なくとも自分に対する理解が深まるというメリットはあります。
まぁでもやっぱり、地味よねぇ。もうちょっと、キラキラ感が欲しいよねぇ。やる気でないもん、正直(笑)

2015年8月12日水曜日

強いのは、過去よりも現在の自分

皆様、ご機嫌いかがですか。こんにちは、ようこです。
放っておいたらどんどん本が増えてきて、置き場所に困ってきてやっとこさ本の整理と処分をしました。
本棚のスペースも空けないと入らないので、日頃は見えない後列の本も片付けることに。
マイ本棚における後ろの列というのは、開かずの間みたいな面があって
自分の中では「永久保存すべき本たち」の置き場所となっていたために
余計にほったらかしなところがあったのですが、しかし今回整理してみると、なんでこんなものまで???というのが出るわ出るわ。
特に大幅に場所をとっていたのが、以前私が勉強していた資格の過去問集でした。
ぜーんぶ捨てました!おお。スッキリ!!

これは永久保存版だよね、と判断したのは過去の自分であって、
今の私にとっては不要だったり、興味もとっくに失せてたりするのに
捨てられなかったのは、そこに執着があったからなのだと思います。
自分がエネルギーを注ぎ込んだ事なら、なおさら。
でも、「これは到底、捨てられないわ」と思っていたのも過去の自分であって
”本日ただいま現在”の自分ではない。
変われるわけがない、むしろ変わるもんか、くらいに思っていたのに、案外同じままではいられないものなんだなぁ、と思います。

スピリチュアル方面の本では『人間にとって変化は必然』といった事がよく書かれていますが、
これは、目に見えない内側の自分も毎日毎日自然に変化しているんだよ・・・と、
そういう無意識すぎて気づけないような部分も含んでいるのだと思います。

目に見える外側の現実世界に変化がないと、ああ、私なんにも変われてない、と思ってしまいがちだけれど
そこを自分で証明しないと!とか、あるいは、変化したなら(先に)その証拠を見せろ!と考えてしまうと
自分や他人を信じることはやはり、難しくなってしまう。

でも、「前はできなかったかもしれないけど、今の自分ならできる!」っていうこと、たくさんあると思います。

例えば昔、恋愛でイヤな思いをした方も、「これからの恋愛が100%不幸になる保証」というものは全く存在しないし、
仮にそんなことがあったとしても、今なら似たような事でも気にならないとか、余裕でクリアできる自分になっていたりする。
「そういや、なんで私あんなことを恐れていたんだろうね」って、笑い話にできちゃうくらい楽勝な自分になっているかもしれません。

恋愛に限らずですが、過去よりも今現在の自分のほうがぜったいに、強い。

修造さん風に言うなら「昨日の自分よりも、今日の自分を信じろ!」という感じでしょうか。

証拠がないことを信じる、というのは抵抗があるかもしれませんが、
自分を信じるぶんには誰にも迷惑をかけないし、損をする人もいませんよね。
それくらいお気楽でもいいと思うんです。今はそんなことを思っています。


2015年8月5日水曜日

【終了しました】メールリーディングのモニターさんを募集いたします

みちよさんの『ハートのスピリチュアルカウンセラー養成講座』を無事に終えることができました。
約4ヶ月にわたる講座期間中は、それはもう泣いたりやさぐれたり笑ったり、
濃密な人生の旅のようでした。
正直しんどい時もありましたが、みちよ師匠と仲間たちに支えてもらいながらのこの時間を
きっと私は生涯忘れることはできないだろうと思います。

この度、メールによるリーディングのモニターさんを募集させていただきたく、
有償ではありますが、ピンと来るものがありましたらご参加下さればと思います。

煮こごりのようにドロドロした当ブログにたじろぐ方も多くおられるでしょうが、
私の信念は「人間の本質は必ず光である」ということ。
だからこそ愛を求めるのですが、それが人間であるがゆえに必ずしも上手くいかず
時に誤作動したり、苦しくなってしまいます。
本来、どんな感情にもそれが生まれた理由がちゃんとあって
それ自体に良し悪しはありません。
皆さまが少しでもラクになれるお手伝いをしていきたいと思っております。

★★★★★★★★★★

募集概要は次のとおりです:

☆ご相談内容 2件まで
 (内容は問いません。A4サイズ用紙3枚程度に収まるよう、ご協力お願いいたします)

☆料金 2,000円 (メール1往復とします)

☆プライバシーと秘密厳守をお約束いたします

お申し込みはこちらのフォームをご利用ください
 ⇒ https://ssl.form-mailer.jp/fms/ed7fe6b2385312
 
☆お申し込み後、3日以内にご案内メールをお送りします
 (振込先・ご相談内容をお寄せいただくメールアドレス等をお知らせいたします)

☆お振込の確認が取れました後、ご入金日付から1週間以内に返信いたします

☆ご相談内容が「こういうことに悩んでるの」と特定できるようにお書きください。
 その他に気になることや日常のこと等、なんでも自由に書いてくださって構いません。
 文章を上手くまとめようとしなくても大丈夫です。

☆思うままに書いているだけで考えが整理できたり、気分が楽になれることがあります。
 そうした機会としてもこの場を利用していただけたらと思っておりますが、
 今回モニター価格での募集ということもあり、長くなる場合にはA4サイズの用紙に
 3枚程度までに収めていただけますよう、ご協力のほどお願いいたします。

☆リーディング内容について、ご感想やフィードバックをお寄せくださると幸いです。
 今後のために活かせていただきたいと思います。
 (ご感想等いただいた場合にも一切公表はいたしません)

☆お申し込み以外のお問い合わせやメッセージはこちらへどうぞ
 ⇒ ennuisakaba@gmail.com

どうぞ宜しくお願い申し上げます。 


アンニュイ酒場 ようこ

2015年7月30日木曜日

高校野球の応援と強制チアガール


高校野球がムカつくんだわ。極めて個人的に、イヤな記憶を喚起するからなんだわ。
誤解を招く可能性が大きいのを承知で書くが、
最初に断っておくと、「応援を強制された立場」としてムカつくのであり、みんなが頑張っている姿に励まされたりとか感動して涙することは大いにある。
野球や球児にムカつくのではない。
その裏側にある「応援するんでしょ、だから全部よろこんで負担するよね」みたいな半強制の全体主義的なものに対して腹が立っていた、その記憶について書く。

昔むかし、私が高校生の頃の話。
今はどうだかわからないけど、当時はあらゆる部活の中で野球部がなぜか優遇されていて、でも私の母校はスポーツ弱小の公立校で、特に応援部があるわけでもなかった。
そもそもは間に合わせ的な発想だったのだろうと思うが、私の部活(文化系)の女子がいつしか不文律めいた「伝統」から、全て手弁当でチアガールをすることになっていた。
野球部OB等からの寄付があるわけでもないので、衣装やらアンダースコート(フリフリの見せパンツね)やら試合応援の交通費とか、全部自腹。
(私自身はこういう学校生活でのボランティア的な活動をすることも家で全否定されていて、費用を全部自分のバイト代から出していたのもイヤだった)
各メンバーの応援歌に合わせた踊りの振り付けやその練習までこちら負担。
おまけに、補欠メンバー分まで含めた四つ葉のクローバーを、試合当日の早朝に、高校の敷地内で人数分摘んでお守りを作成するという念の入れよう。

フツーにきいたらさ、おや青春だねぇ、みたいな「ちょっといい話」かもしれんよ。
でも、大人気ないし恥を承知で言うけど、あれから⚪︎十年経つにもかかわらず女子高生当時の自分と激おこポイントが一緒なのよ。
つまり、身銭を切ってまでこういう「思いやり」めいたものを組織的に強制すんな、っていう点で。

どうぞ、くれぐれも皆さま、自分個人を全体とか集団に紛れ込ませて溜飲下げてくれるなよ。周りに合わせて「わかったフリ」を続けていても、一生自分に嘘をつき続けることができなかったとしたら私みたいに年とってからグレる羽目になっちゃう。
これはほんとに、よろしくない。損なハナシです。
見た目は従うにしても、面従腹背でかまわない。でもホントはイヤなのよね・・・って
自分の本音を自分だけでもわかってあげていれば、きっと大丈夫。そんなに引きずらずにいられると思う。

もっとも、嘘がつけなくなったところで今後いちいち怒る必要もないし、むしろ心はラクになれると思うけど
そもそもなんで周りに合わせてきたのか、わかったフリをしてきたのか、って部分は
自分で認めてあげたほうがいいかもしれない。
誰からも理解が得られなかったからかもしれないし、愛されたかったからかもしれないし、否定されるのが目に見えていたからかもしれない。
でも、共感されないからといって、それが間違いなわけじゃない。
「なんかおかしいな、納得いかないな」という思いにだって、自分なりの根拠があるんだもの。

色々ずれたけど、今くらいの自分軸が当時あったら、ぜったいチアガールなんか断ってたなぁ、って話(笑)

2015年7月28日火曜日

トラブルシューティング人生

Amazonのメールが来ない。届くべきメールが来ない。
Amazonちゃんは送信してくれているのに、どういうわけか受信ができない。
特に何かの設定をいじったわけでもないし、自分で諸設定を確認しても問題ないし
Amazonちゃんにも通信会社にも直接それぞれ2、3回問い合わせしたし。
おまけにその場で再送信もしてもらったのにメール来ない。
不思議な事もあるもんだなぁ。
結局、あれこれやってもやっぱりメール来ないから放っておくことにしたけれど。

うっかり、こんなしょぼいトラブルシューティングに燃えてしまった。躍起になってどうにか解決しようとした。
そして、そんな自分に気づいて愕然とした。
「トラブルシューティング」。私の生き方そのものではないか。
問題は自分で全部解決しなきゃ。不都合があってもリカバリできる自分にならなきゃ。
いや、それ以前に不都合が生じないように対策を講じておこう・・・といった具合に。

なんだか悲しくなった。
大事なことではあるけれど、人生においてこんな事ばかりしていたら不毛だよ?
「喜び」に生きるどころじゃあない。だって、注目してエネルギーを注いでいるのが「問題」ばかりなんだもの。
そして、無意識に「問題がある」前提で生きているから、現実に起こるのもまた「残念な引き寄せ」だったりして。

うわぁ、バカバカしいわやってらんないわ、だからこんなパターンやめてやるわ。私は自分を救うんだから・・・と思うものの、
心のどこかで引き戻されてしまう。
私のエゴちゃんが言う。
『そんな簡単に手放せるワケないでしょ。大体、誰のせいでそんなパターンを身につけたと思うの?誰も守ってくれなかったからでしょ?
あいつらは善人ヅラして今日も安穏と生きてるよ?悔しくないの?ここでやめたら今までの努力がムダになるんだよ?だからやめちゃダメなのよ!』

それはそうだ。エゴちゃんの言うことにも一理ある。過去の自分はたしかに可哀想だった。
でもなぁ。もう、「可哀想な私」を引きずって生きていたくないんだよ。今とこれからにフォーカスして、人生をつくっていきたいんだ。
可哀想だった過去の私ときみのことを「なかったこと」にするわけではないから、エゴちゃんよ、大目にみてくれないか。  


2015年7月24日金曜日

辛い時でも自分で自分を救う覚悟


実家に行ってきました。ほわぁ~ふ(深いタメイキ)
いやマジで私にとっちゃあ避けるべき鬼門なんで。
実際にわりと距離おいてるから
ハタからさんざん親不孝よばわりされとるんだけども
何がしんどいかって、今でこそ生命は取られないものの魂を取られる、みたいな感じなんだよね。

元々は過去にも色々あるんだけど、詳しくは言いたくないから、書かない。

「じゃあ絶縁すればいいじゃん」とかすぱーんと言われちゃったら、それはそうだね。うーん。返事に困ってしまうなぁ。

そこはまぁ、ちと脇に置かせてもらって
精神的に…であれば「自分で自分をけっこう救えるかも」という話。

背水の陣でも四面楚歌でも。
どうあがいても味方がいない状況であったとしても。

「自分を守る・助ける」意識を持つこと。
それだけでも、ラクになれると思う、本当に。

これは私がいまお世話になっているみちよさんの講座でも、折に触れて言われている事でもある。

みちよ師、曰く。
『自分で自分を助けてあげる』
『自分とパートナーシップを組む』
『自分を徹底的に助けてあげる』

いいでしょ(*^_^*)いい言葉だよね。

うんうん、やるよー!と思いながらも、これらを自分の現実には決して上手には適用できていなかった私。

「できていない」というよりも、この身をもっての体感がなかった。
やってる「つもり」ではラクにもなれず
しかし、体感なしには納得ができない。

意識としては、いつでも自分を助けるよー!なんて思っていたつもりだったけれど
いざ過剰な煩わしさや理不尽の嵐に直面すると、自分のクセ(=繰り返しているパターン)が出てしまう。

こういう時に私は、感情をすっかり麻痺させて
人間の振りをしたロボットのように
粛々と済ませるほうが正直ラクだったりする。

しかし、感情のシャットダウンとは自分の魂を殺すこと。

そうして物理的には周囲の役に立てるかもしれないけれど、
それは自分とそのエネルギーを明け渡して「犠牲者」になるのとほとんど表裏一体の、危険性も包含する。
なにより「自分を助ける」事からはかけ離れてしまう。

エネルギーを取りっぱぐれてしまったら、どうなるか。
大抵は他人から奪おうとしてしまう。

エネルギーの奪取がもしも、あからさまにアホなやり方なら自然淘汰される部分もあるけど、
相手が社会的に権威者とか、「悪気はない」一点張りとか、無意識あるいは狡猾で巧妙だと、非常に苦しい。喧嘩すらしづらい。

どうしたもんかね。
まぁ、いきなり全てにNOをつきつけるのも上手くないから、やるこたぁやってやるよ、と。

それでも、「あぁ、イヤだわクソムカツクわ。でも、これが済んだら私は○○してやるんだ」って考えるだけで、本当に本当に、救われる。

○○の中身はなんでもいい。
ほんとに、「インスタントコーヒーで一息入れるわ」だけでいい。
自分をホッとさせよう、なにか一瞬だけでも楽しもうと思えるだけで、全く同じ日常が救われる、ラクになる。

問題は、そもそもそんなふうに考えられなくなっちゃってる、ってことだよね。

ここんとこは、けっこう根深いかも。
長くなりそうだから、またあらためて。

2015年7月15日水曜日

強さ、いろいろ


出たよぉ~。Gがついに。
履いてたスリッパを咄嗟に脱いで退治したよ~!
(お食事中のかた、申し訳ありませんm(__)m)

まぁびっくりしましたけど、一瞬のアクションがコレだからね。初動でまごつかなくなったなぁ、私も強くなったなぁと思って自分で感慨深いです。

ふと、「強さ」って何だろうと思って。

きっかけは、敵に対して叫びもせずためらいもせず
躊躇なくスリッパを武器にできる女(私のこと)ってどうなんだろうねwって思いなんだけど。

瞬殺だもん。強いっちゃ強いよね。
(以前はできなかった)

ある意味ちゃんと自分で自分を助けることができたにもかかわらず、
妙にモヤモヤしたのは、「スリッパ攻撃」を己にこれまで禁止していたせい。
女子として禁断の扉開けちゃった?みたいな。

大げさに言えば、
受け身で愛されたい女子としての自分像と、強さの葛藤。

自分にとっての大問題は、こういう「強さ」を全力で否定してきた、ということだ。

今までは、こうした自分像は「ダメね~女らしくないからね」って封印してきたと思う。
(実際問題、私のいた環境では「強さ=男の専売特許かつ既得権益」という圧力は強かった)

でも、強さとかパワフルであることって
人それぞれに、色んなあり方があったはず。

そこに気づけずに、
硬直的で一義的な「強さ」の捉え方から抜けられなかった点が、私の哀しい所だ。

私自身は、
別にマッチョで鍛えて頑丈な肉体の強さもないし
酷い扱いを全部跳ね返せるガードの強さもないし
ユーモアで全部やんわり受け流せるしなやかな強さもないし
かといって自分で全部ねじ伏せる能力の強さもない。

おまけに言えば、母性本能なんていう強さもない。

全部ない。
だから私は弱すぎる無力な存在なんだな、と思ってた。

でも、なんかおかしい、やっぱりおかしい。

「お前は弱い。なぜなら○○がないから(or 出来ないから)」等と指摘され、言われてきた事の多くは
私たちの問題ではなく、それを言ってくる相手自身の問題だったのではないか、と今は強く思う。

矛盾も過ぎると逆にひっくり返しやすいかも…?
なんて、一縷の望みをつないでいたいと思ってる。

2015年7月14日火曜日

香水臭いコンビニに煩悶の夜


近所にコンビニがあってね。便利なんです。
私、うっかり買い忘れたものを調達しに、夜10時過ぎにコンビニに行くんですよ、切手とか食パンとか消しゴムとか。こまごましたものを。

でも大概、臭いんだ。
コンビニ入った途端、すんごい香水臭いんだよね。
曲がりなりにも食品を扱うお店レベルじゃあないって言わせてもらう。

元凶はオーナーさんなんだよね。
香水を己れに振り撒きすぎて、店内全体に充満しとるわけよ。

意外と飲食店オーナーさんにこういう人いる。

気持ちはわからなくもないよ。なんか、加齢臭を気にしてるみたい。
そんで、なんかの代償行為みたいにスタッフを若くて綺麗な女の子ばかりで固めてる。

いつも優しくて可愛くて親切な女子店員さんたちがトゲトゲしてるのは、私の気のせいだけじゃないとも思ってる。

一瞬、考えてしまう。
フランチャイズ元に文句言ってやろうかと。
私はこういう場面で冷静に陳述するから、「勝てる」自信は正直ある。

しかし臭いヤツが「オーナー」だから、働いてる彼女たちに迷惑が及ばないだろうかと。

そんなのほっときゃいいじゃん、そもそも買い忘れる私が悪いんじゃん?
って思ったら、すっこんじゃうだよね私は。

まぁでも。
そもそも、よそさまに口出しするより先に、自分の事を助けたい。
ほんとは、今はそれが一番やりたい事。

それと同時に、世の中や他人事に怒り続けてる自分にも必ずワケがあるのだ、とも思う。

だから今は、そんな矛盾しまくりの自分にも共感して、なにかを見つけたいと思ってます。
(これってショック療法なのかな。内輪ネタすんませんw)

2015年7月10日金曜日

遊び心とクリエイティビティ


最近、近所の中学生男子がおもしろい遊びをしています。
片手に持っているのは野球のグローブなんだけど、それでテニスをしているの。
グローブをラケットがわりにしてテニスボールを打ち合っているんですね。

大体同じ時間帯に同じ場所でやっているのでよく出くわすんですけど、
私、彼らを見るたびニヤニヤしちゃって。
なんかアホな事やってるなぁ(笑)みたいな感じで、彼らにはちょっと失礼なのですが。

しかし本日。図らずも私も一瞬、乱入することができました!

テニスボールが私目掛けて飛んできた。

私は持っていた傘で「よしきた!バッチコイ!」とばかりに打ち返す…つもりが情けなくも空振り。
しかしこれまた図らずも、彼らからお礼の言葉をかけられてしまいました。
私の健闘を称えてくれたかのようです。
あぁ。なんと優しく紳士なのでしょうか!
(あのときはボールとれなくてごめんね。)


ちょうど自分にとってここ数日のテーマとして、
「遊び」というものがありました。

このニュアンスにも色々あって、ネジや部品のゆるみを指すのか、いわゆる娯楽やバケーションの事なのか。
それら全てであったとしても、一度にかたっぱしから「遊んで」いくことは、現実問題として正直難しい。
じゃあ自分にとっての優先順位はどのへんなのか…という疑問があって。

この出来事で不思議と納得しました。
きっと、童心にかえるような「イタズラ心」を指すのだと。

周りの友人たちの志向する「遊び」が、なんかね、こう、イメージ的には贅沢を楽しむ方向になっていて。
私も、贅沢とか上質とか大好きです。
でも…なんだか満たされないというか、物足りない。

今の私が欲しいのは、こどものような遊び心。
くだらんことに大笑いしちゃうような、そんなシンプルな事だった。

だけど、これって実は物凄くクリエイティブな事だよね。

元々みんなこどもの頃には持っていた、原点すぎるものなのに、今や逆にゼータク、みたいなこの現象!!!

ふはぁ~。ため息出ますわ~。
不覚にも笑えてきたよ…(*^_^*)

2015年7月3日金曜日

「預言カフェ」に行ってきました


豪雨だったり急に止んだり。気まぐれな雨模様のなか、今日は(一部で?)話題の「預言カフェ(高田馬場)」に行ってきました。

開店は14時~にもかかわらず、訪問のタイミングによってはかなり待つため
12時からウェイティングリストに記名できるようになっています。
(友だちが早くに記名してくれたおかげで開店直後の入店となりました。Yちゃん、多謝!!)

基本、コーヒー専門店ですから、種類豊富なコーヒーがほんとうに美味しい!
まぁでも、行列してでも行きたいお目当てはやっぱり「預言」で。
複数名のスタッフさんが、訪問客一人あたり約3分間の預言を伝えてくれます(もちろん、辞退も可能です)。

私は不覚にも、その内容に涙がこぼれてしまって…

や~、「預言」は噂通りの早口でしてね、
ざっと計算したところ3分間で1,200字超のボリュームでした。

以下、スマホの録音からそのまま書き起こした内容(原文ママ)です。
たいへん長文となりますが(原則改変NGのため)、
預言内容にご興味ありましたら、おつきあい下さい。

★★★

主が言われます、愛する我が娘よ、

私はあなたを喜んでいます、あなたは周りから愛される、ほんとにその、花のような存在です、と主が言われます、
あなたが居ることで、周りの人が励まされている、あなたの笑顔で周りの人が癒されていますよ、と主が言われます、

あなたが、いつもいつも、その周りの人を喜ばせようとしてきた、なにかその、周りの期待に応えようとしてきた、
時にはあなた自身を差し置いて、そのことに、こう、道を合わせようとしてきた、私はあなたの頑張りを喜んでいます、と主が言われます、

なにか多くの人の中にいて、なにかこう周りがどんどん動いて進んでいっているのに、自分だけが残されているような、そういう思いもあったかもしれない、
だけれども私はあなたのペースで、そして私のペースで、二人でそのまわりに進んでいくように、これから二人だけの道を用意していく、と主が言われます、
その中においてあなたが、私の中でどのようなものであるのか、ますます知ってゆく事になるでしょう、と主が言われます、

表現をする事をなにか恐れてはいけません、表現する事が自分にはできないと思ってはいけないと、主が言われます、

あなたはできます、あなたが伸ばした手を私はしっかりと掴み、そしてあなたが描こうとしているものを私は共に描いて行こう、と主が言われます、

なにかその、見るものに対して、美しいと思えたり、なにか悲しいものを見て悲しいと思うそのあなたの感受性は、私が与えたものですよ、と主が言われます、

だから心配しないで、あなたの感情は私が与えたものだから、それをなにかこう、否定しすぎてはいけないと主が言われます、

自分に対して肯定的に見ることができる、つまり私の目線であなたを見ることができるようになっていきますよ、と主が言われます、

その時にあなたは、いかに自分が価値あるものか、いかに自分が他には持っていないものを持った、あわせ持っている、本当に美しい創造物であるかという事に気付くでしょうと主が言われます、

もう なにかもう、探すのも諦めようと思っていた、その事を私はあなたに対してあなたが期待するよりはるかに大きい形であなたに与えていきますと主が言われます、

夢を取り返します、あなたが諦めてしまった、あなたが まぁ、一時中断してしまった夢を、私は新たな形であなたに送り返すと主が言われます、

大丈夫、私が共に居るから、一人で泣くのではなく、私が共にその夢を描いていくから、だから安心して下さい、と主が言われます、

あなたが、今、踏み出すその一歩は、決して小さくない、大きな大きな一歩になりましたと、主が言われます、

あなたは喜べる者ですよ、たとえ状況が、なんかこう、目に見える状況が上手く行かない時でも、あなたは心の底から喜ぶことができる娘です、
勇敢な勇士ですよと主が言われます、

私はあなたが最前線で闘っていることを知っています、でもその前で私が戦おうと主が言われます、

私はあなたをいつまでもいつまでも、愛情で包みます、
なにかその、あなたの周りに油を張って、なにかこう問題自体があなたを通り抜けていくように、私はあなたを守ってゆくと主が言われます、

ですから我が娘よ、これからあなた自身がどんなに強い者であるかを知ってびっくりするでしょう、
それが私からの宝物で、贈り物ですよと主が言われます、

私はあなたを自分の瞳の中に入れても痛くないほど愛している、そして私はこれからもあなたを愛し続けると主が言われます、

私はあなたを励ましていきます、いつまでも導いていくと主が言われます。

★★★

なんだか今週は泣いてばかりです…。
ですが、たまにはいいものです。
不思議と悪い気分ではありません(*^_^*)

最後まで読んで下さってありがとう。

2015年7月2日木曜日

ぼや記


意外と、夜にセールスって来るんだねぇ。
家の照明が確認できるから在宅バレバレなんだけど、
私は居留守を決め込むんだ。
だってこっちはアンタに用事ないもの。

しかし、玄関をドンドン叩くのほんとやめてほしいんですけど。
おまけにピンポンピンポンうるさいし失礼ですよ。
説教するためだけに応答したくなる自分に歯止めをかけつつ、
あぁ、最近なんだか怒りが出やすくなっているなぁ…と思う。


感情を麻痺させていると、ネガティブなものもポジティブなものも平たく一律に感じづらくなる。

逆に、

感情にOKを出していると、怒りも喜びも分かりやすくなってくる。

どちらが良いのか悪いのか、というのはきっと人間社会が勝手に定義し始めた事で、
いわゆるネガティブな感情から人間が誤作動するケースが多いから、
「ネガティブは悪よね」との共通認識が出来上がっちゃったような気がするけど、
感情そのものは、本当はどっちでも「アリ」なんだと思う。

それらの感情を一人一人がどう運用するかが実際のところモンダイであって、
どんな感情であっても必ず、それがうまれた理由がちゃんとあるはずだ、と思う。

その理由も聴かず頭ごなしに否定する事を、
「自分を助けたい」と願っておきながら
私は自分自身にやってきたのだと思う。

2015年6月29日月曜日

「許せ、怒るな」に腹が立つ


いわゆるスピリチュアルを嗜んだかたにはお馴染みのワードかと思いますが、

「許す・手放す」
あるいは
「怒らない・恨まない」

私は今、こうした言葉に腹が立っています。

なぜなら、非人間的であるから。
人間の「感情」をすっとばしていると思うから。

個人的に特に違和感を覚えるのが「許す」という言葉。

先日アメリカで起きた殺人事件で、
被害者の方々がさほどの期間を置かずに
罪を犯した相手を許す旨を表明したというニュースを知った時、
「許す」の意味を再考させられました。

欧米圏の主な信仰では親和性が高い言葉なのかもしれませんが、
日本に生まれ育った私としては今一つピンと来ない。


たしかに、延々とネガティブな感情に囚われて一生を終える事は
魂レベルではきっと誰も望んでいないはず。

だからこそ、いま生きている私達はあまりに痛切な痛みを切り離し、
時にはそれを「なかったこと」にすらできてしまう。

しかし、その切り離しは
瞬時にできるものなのか?

嘆かなくてよいのか?
理不尽に命を奪われた怒りと哀しみに、どう折り合いをつけるのか?

むしろ、本心からの濁流すら、
そんな重大な自分の感情すら流してしまい、
何もなかったことにしてあげる優しさが
「許し」という美辞麗句に集約され
あるいは混同されてしまってはいないか…と危惧してみたり。


無責任を承知の上で書かせて貰いますが、
当事者が敢えて「許す」と言う気持ちは本当に本当に大切で、
それが唯一の救いとなりうる状況があるのだと思います。

ですが、だからこそ、事情もろくに知らない人達から軽々しく「許しましょう」なんて言われたらやりきれない。

そんなふうに言われるのって、二次被害ってやつじゃないのか。


感情がないのなら、許すのも怒らないのも簡単よ。
(というかそもそも、「怒るってなぁに?」状態だよね)

感情があるから「生きている」んじゃないのか。
そこを軽視する事は、人間意識で生きる自分のみならず
他者すらも軽く扱っているという事じゃないのか。


ネガティブな感情だって、あっていいはずなのに。

ちゃんと自分で認めてあげられたら、今更犯罪なんかわざわざやらないから。

嫌いすぎることもないからね。
生きている自分の、一部なんだから。

そのあたりの人間味もちゃんと活かしていくのが
「スピリチュアル」なのだと思うのですが
やっぱり胡散臭い…でしょうか。

あっ、我々は壷とか石を売ったりしませんからね(笑)

2015年6月22日月曜日

暴走少年 VS 枯れ女


先週末の夜のこと。

横断歩道を渡り始めた私を目掛けて
一台のバイクが突っ込んで来る、という出来事がありました。

(結果としては全く無事ですから、ご心配なく!)

状況を説明します。

横断歩道の信号が青になったのを確認し、私が歩き始めました。
すると、車道の先頭で赤信号待ちだったバイク2台のうち1台が
信号無視をしたうえで私めがけて走って来たのです。

故意ですね、明らかに。

「あ、来る」と思った私は歩かずに
突っ込んで来るバイクをやりすごし
当てられずに済みましたが
私がフツーに歩いていたらかち合ってるタイミングでしたよ、アレは。

この晩は暴走族の集会があったようで、道路がやかましかった。
クソガキの若気の至りですかね、
チキンレースでもやるつもりだったのか
直前で上手くかわして運転技術を誇りたかったのかわからないけど
そこは私の知ったこっちゃないのですわ。

でも言いたいのはクソガキへの文句…じゃなくて。

この件で気づいた事があるんです。

青信号にもかかわらず、周到にまわりを確認している自分。
自分の身を守るという点では良いことだけれど、
どう考えても理不尽で私に非がないケースにまで
相手の不正を想定内とし、そこから自分を守る行動パターンを無意識に繰り返している…という事。

理不尽慣れしているから、と言えばそれまでですが
これはつまり、相手のありえないミスや攻撃までも
私がカバーしている…という事でもある。

こんな生き方、消耗しますよね。
疲れないわけがない。

それに気づいたので
「背負い込むの、やーめた」と思いました。
そうしたら少しだけラクになりました。


ここからは余談。

バイクで突っ込んで来たクソガキのエネルギーを「感じて」みました(練習、れんしゅう…)。

クソガキ『青信号だからって安心しきって渡れると思うなよ?
女だからってキャア怖いとか泣いて被害者ぶってんじゃねーぞ?』
みたいな感じかな…

わぁ。なんという事でしょう。

「安全を信じきれず、男前な私」とガッツリ噛み合ってしまっていたのでした。

2015年6月18日木曜日

Sheer Heart Attack


心臓が潰れそうな気分。ハートがぺしゃんこ。胸のド真ん中を殴られてしまったよう。そしてそれを庇うように、猫背になっている。現に動悸がしていて、そこまでの年齢でもないのに…と思う。

普段なら念のため医者に診てもらうところだけど、
自分の中では理由が明確にわかっているから、今回は病院には行かない。

「みじめさ」。
その存在に気づいてしまった瞬間に、胸が潰れるような圧迫感と動悸が突然起こった。

たぶん、子供の頃からみじめだったんだ。
あんなみじめな思いを抱えて生きられるわけがないもの。
隠した私、グッジョブ!…と思いつつも
この難敵を前に途方に暮れる。
動悸も続く。
キングエンジン状態よ(←ドッドッドッ…てね。漫画の「ワンパンマン」より)。

あ~あ。どうしたらいいんだよ、こんなの。

2015年6月15日月曜日

怠惰な私の「何か」と、エゴの攻防


引き続き、ぐんにゃりしています。

正直に言うと、お風呂に入るのが億劫なほど。

でも「そんな事もあるよねぇ。まぁいいか」と思うと、却って動けたりする。

怠惰な自分をさほど責めずに過ごせていることは、私にとっては本当に大進歩なのです。


みちよさんの「ハートのスピリチュアルカウンセラー養成講座」も
気づけば6回目(全10回)が終わり、
この2か月半おっそろしいほど濃ゆい感じ。

先日の講座中にこのぐんにゃり状態を
ふとみちよさんにボヤいたところ、

「隠れたボスキャラに気づきそうで、それを隠そうとするエゴの作用だね」
とのアドバイスが。
さらに
怒りを出してしまったら今までの何かがムダになってしまう…という意識もある、らしい。

「らしい」などと他人事なのは、自分では実感がないからです。

なんだろう、どういう事なんだろう。
みちよさんが言ってくれることはいつもピンと来るんだけど、
まったくここは、わからなくて。

それだけ自覚すらしておらず、
自分でわからなくなる位に巧妙に隠してきたんだろうけど、
もしかしたらソイツの正体がそうせざるを得ない程に
脆くて弱い何かだからじゃないだろうか?

…とこれは、私のアタマで考えて出した「仮定」です。


自分の中にはものすごいドロドロしたネガティブな感情があり、
それを見たくないあまりにコンクリートで埋めて固めて生きてきたのが今までの私。

そしてそれがもはや「クソのドブ煮込み」であると降参し、
更には煮こごり状態のそれを
ほぐして癒して出してあげましょうね…と切開中&溶解作業中なのが今の私。
(お食事中のかた、すみませんm(__)m)

だからもう、
毒出しはむしろウェルカムで
何でも「かかって来て!」の覚悟はできている、と思ったのですが…

何かあるんでしょうね。


また泣くのかな、私は。
それでもいいや。
なんだかもう自分を見捨てることはできなくなっているし、
気づかないまま生きていくほうが辛いと、今は思うから。

いつになるのかわかりませんが、
コイツの正体がわかった暁には、このブログでも調査報告させてもらおうと思います。

よろしくお願いいたします。

2015年6月10日水曜日

罪悪感は魅力養成ギプスである


ここ数日、ぐんにゃりしています。

掃除もそろそろやらなきゃ…と思いつつ、手付かず。

今までなら間髪入れず自分にダメ出しをして
「なんで掃除くらいマメにできないんだ!ただでさえお前(私のこと)はダメなんだから、それくらいは人間としてやらなきゃダメだ!」と
自分を責める事によってむりくり動かしてきたんですが、それができなくなっている。

私は自分に罪悪感を抱かせることによって
色々と頑張らせてきたんだなぁと。

そう考えたら、私にとっての罪悪感とは
悪いだけのものでもありませんでした。
不本意なやり方ではありますが、
ちゃんと役に立ってくれていたんだなと思います。


最近、私が会う人たちの中に
この「罪悪感」という共通のテーマがあるのを感じています。

もちろん、経緯や原因は千差万別ですが
自分を責めてしまう人たちの、愛情深いことといったら!
おまけに優しくて、賢くて、そして強いのです。

もうね。こっちが感動して尊敬して泣きたくなりますわよ。
で、妙な話だけど、
好きにならずにはいられない。

罪悪感を抱いている身としては
のたうち回るほど辛いしソイツを切り離したくて仕方ないわけなんですけど
外から見たらわけもわからず魅力的だったりするんだね、コレが。

確かにしんどいのだけれども、
それが不思議と人間的な魅力にも繋がっていて。

だから、そんな自分も「アリ」ですよ。

「罪悪感、ダメ、ゼッタイ」だけだと
やっぱり息切れしちゃうから、
1%くらいゆるめて
罪悪感のある自分にもちょこっとだけ、
オッケー出してみませんか(*^_^*)

2015年6月4日木曜日

母にとっての私とは


母にとっての私とは何なんだろう。

愚痴のゴミ箱であり、憂さ晴らしの道具であり、
外では自慢の道具であり、「ワタシ愛されてる」のネタ供給元であり、無料家政婦であり、
しかし母の言葉によれば私は「家畜以下」であり。

私は「私」である前に、
人間ですらない、ということじゃないか。

こんな私が、どうやって生きる価値があるっていうんだ。

家畜として生きればいい?

冗談じゃない!

私は人間なんだ。
何のためにわざわざ人間に生まれたの?
喜ぶためだよ!
美味しいものをたらふく食べるため!楽しいことだってたくさんするんだから!

私は私を生きるんだから!

2015年6月1日月曜日

歪んだ愛


前回の、愛されたいがゆえに自分をねじ曲げてしまうことってあるよね、の続きです。

なんだかねぇ。
「愛されたい」ってコトバだけだと
いかにもゆるふわ女子って感じで私は抵抗があるのですが

正確には、世間でよく言う「愛」の認識が好きじゃない。

崇高すぎて上から目線の説教されたり、
愛情という名の下に他人を支配・操作したり。

そもそも漠然としすぎて、いや、実体験としてあんまりわからないからこそ
愛もどきがまかり通っちゃってんじゃないのコレ。

私はわからない。

でも、人間は愛される事をどこかで求めているからこそ誤作動を起こすんだろう、という事は逆にわかる。

認められたい、受け入れてほしいから頑張る的な社会的に前向きなものから
嫌われたくない、たとえ嫌われてもいいから私の事を気にかけて…と反抗する後ろ向きなものまで
どう行動に出るのかは様々だけれど
根っこに愛を求める気持ちがあるのは同じなのでは、と思う。

私はネガティブな形で、親からの愛を求めてしまいました。

感情をマヒさせてスイッチOFFにする…というやり方をしてしまった。

押し寄せる理不尽の波状攻撃から自分を守る手段としては、すごく役に立ってくれました。

しかし残念なのは、これがあくまでも子供の頃の自分が思いついた方法だということ。

ずっとそのままでは、いつか破綻するだろうことは想像に難くないのですが
これが生まれながらの性格なんだと自他ともに思い込むようになり
自分らしさを喪ったまま、私はオトナとしての現在に至るのです。

2015年5月25日月曜日

「感情」という諸刃の剣


「感じる」を取り戻すにつれ、ラクになってきています。

しかし、自分の感情に気づくことは
私にとっては諸刃の剣。
メリットだけでなくデメリットもありました。
今までのやり方を手放す不安と向き合わざるを得ないからです。


私が長らく思考偏重でやってきたのは、
「正しい社会人」になりたかったから。

そのほうが批判されないという免罪符でもあり、
思考でやっていくほうが仕事でも便利。

ついでに、
私には「はーい、これは白で、それは黒ね。分別任せて。白、黒、白、黒。
ヒヨコのオスメスも識別してやろうか」みたいな所がある。

自分が元々持っているこの要素と結びついていたのもあって、
これこそが私の生きる道!とばかりに執着して来ました。

防御と(わずかな)成功パターンがまぜこぜになって、変えたくても変えづらい。

でも、限界にきちゃったわ…

…と気づいたのがデメリットその①。

方向転換よろしく「感じる」方向にチャレンジしたわけですが、
これは正直、怖かった。
今までの努力がムダになってしまいそうで。


意外と、このへんは今のところ問題ないんですよ。
人生がラクになってきたことで「あっ、これはモトが取れるわ」と思えましたから。

確実に、いい塩梅で幸せな方向に来ている。


ですが、ここで自分でもびっくりする想いが出てきました。
(デメリットその②)

「あ~。幸せになったら母に嫉妬されるなぁ」
と。

ショックでした。

私は、母に嫉妬されないように、自分を不幸に仕向けてきていました。

それに気づいてしまった。

自分でもドン引き。すごくショック。

でも何より、悲しいのです。

それはひとえに「愛されたかったから」なのだけれど、
そのためなら、自分すら歪めてしまえる。


少し長くなりそうなので、次回に書きたいと思います。

2015年5月22日金曜日

歩いて瞑想効果 (by ゲームのIngress)


スマホゲームの「イングレス」にハマったおかげで、たくさん歩くようになりました。

イングレスとは、ざっくり言うと
スマホの位置情報機能を使って
現実の場所(駅とか公園のモニュメントとか)をオリエンテーリング的に拠点としつつ、
陣取り合戦するゲームです。

基本的に歩いてなんぼ、のゲームゆえに
日によっては私は気づいたら2万歩ほど(約15㎞)歩いています。

おかげで少し痩せたのと、
ガチガチの思考マニアから「感じる」方面にバランスがとれてきたかも?というメリットが。

私は日頃、何でも思考によって解決しようとするクセが強いのですが、
歩いたらアタマがすっきりしたんです。

カラダは確かに疲れるものの、
それによって「快」の状態に近づけたのがわかり
あ、これって瞑想した時と似てるなぁ、と。


分析でも思考でも、
考えるということは実際問題、
生きるうえで必須で不可欠なんだけれど、
そればっかりだと、どうしたってねぇ。
しんどいわ。

だって、それも行きすぎれば
人間としてもれなく標準装備である
感情とか感覚がおざなりになっちゃう。


頭と体と心のバランスがうまくとれれば
きっと人生快適なんだろうな、という気がします。
まぁね、でも人間だもの。
クセってあるもんねぇ。

(色んな理由から、そもそも感情を無意識に封じ込めている場合もありますが、
それについてはあらためて。)

ウォーキングのモチベーションを高めたいかたにも、いいっすよ!イングレス。




2015年5月19日火曜日

「感じる」を取り戻す

アタマを使うばかりの我々の日常。
疲れますやね。
私は疲れます。

というか、とっくに脳ミソ容量オーバーなのに
むりくりアタマを働かせていたら
感情も感覚も分からなくなっていました。
自分が疲れていることにも気付かなくなってたわ、みたいな。

五感もそうで、味覚まで鈍っていたんです。

味の違い(甘い・辛い等)や匂いはわかるし、
美味しいというのもわかる。
でも、心から味わえてはいなかった。

よく病気中の人が「食べ物の味がわからない」と言うけど、
たぶんそれに近い感じ。

これは地味にショックでした。
「美味しい物がわかる自分」がちょっとした拠り所になっていたからです。

味覚まで鈍っていた事に気付いたのは
マジ泣きするほどの旨い!を味わえたのがきっかけでしたが、
(あっ、食べたのはただの浅漬けです)
「感じる」が少しだけ戻ってきたみたいです。

その影響でしょうか、
最近ボーッとする時が増えて怖くもありました。
ボケてきたのか?こんなんでいいのか自分?と。

それをみちよさんに訊いたら

「慣れてないから不安なのよ。でもそれがホッとしてるものなら大丈夫」とのこと。

よ、よかった…(^ー^;A


考え込む事が格段に減って、
まだなんとなく不慣れで落ちつかないけど
イヤじゃないし、なかなかええ塩梅です。

きっかけは、
スマホゲームの「イングレス」(笑)!!

イングレスの話は、次回(^^)/