2015年6月29日月曜日

「許せ、怒るな」に腹が立つ


いわゆるスピリチュアルを嗜んだかたにはお馴染みのワードかと思いますが、

「許す・手放す」
あるいは
「怒らない・恨まない」

私は今、こうした言葉に腹が立っています。

なぜなら、非人間的であるから。
人間の「感情」をすっとばしていると思うから。

個人的に特に違和感を覚えるのが「許す」という言葉。

先日アメリカで起きた殺人事件で、
被害者の方々がさほどの期間を置かずに
罪を犯した相手を許す旨を表明したというニュースを知った時、
「許す」の意味を再考させられました。

欧米圏の主な信仰では親和性が高い言葉なのかもしれませんが、
日本に生まれ育った私としては今一つピンと来ない。


たしかに、延々とネガティブな感情に囚われて一生を終える事は
魂レベルではきっと誰も望んでいないはず。

だからこそ、いま生きている私達はあまりに痛切な痛みを切り離し、
時にはそれを「なかったこと」にすらできてしまう。

しかし、その切り離しは
瞬時にできるものなのか?

嘆かなくてよいのか?
理不尽に命を奪われた怒りと哀しみに、どう折り合いをつけるのか?

むしろ、本心からの濁流すら、
そんな重大な自分の感情すら流してしまい、
何もなかったことにしてあげる優しさが
「許し」という美辞麗句に集約され
あるいは混同されてしまってはいないか…と危惧してみたり。


無責任を承知の上で書かせて貰いますが、
当事者が敢えて「許す」と言う気持ちは本当に本当に大切で、
それが唯一の救いとなりうる状況があるのだと思います。

ですが、だからこそ、事情もろくに知らない人達から軽々しく「許しましょう」なんて言われたらやりきれない。

そんなふうに言われるのって、二次被害ってやつじゃないのか。


感情がないのなら、許すのも怒らないのも簡単よ。
(というかそもそも、「怒るってなぁに?」状態だよね)

感情があるから「生きている」んじゃないのか。
そこを軽視する事は、人間意識で生きる自分のみならず
他者すらも軽く扱っているという事じゃないのか。


ネガティブな感情だって、あっていいはずなのに。

ちゃんと自分で認めてあげられたら、今更犯罪なんかわざわざやらないから。

嫌いすぎることもないからね。
生きている自分の、一部なんだから。

そのあたりの人間味もちゃんと活かしていくのが
「スピリチュアル」なのだと思うのですが
やっぱり胡散臭い…でしょうか。

あっ、我々は壷とか石を売ったりしませんからね(笑)

2015年6月22日月曜日

暴走少年 VS 枯れ女


先週末の夜のこと。

横断歩道を渡り始めた私を目掛けて
一台のバイクが突っ込んで来る、という出来事がありました。

(結果としては全く無事ですから、ご心配なく!)

状況を説明します。

横断歩道の信号が青になったのを確認し、私が歩き始めました。
すると、車道の先頭で赤信号待ちだったバイク2台のうち1台が
信号無視をしたうえで私めがけて走って来たのです。

故意ですね、明らかに。

「あ、来る」と思った私は歩かずに
突っ込んで来るバイクをやりすごし
当てられずに済みましたが
私がフツーに歩いていたらかち合ってるタイミングでしたよ、アレは。

この晩は暴走族の集会があったようで、道路がやかましかった。
クソガキの若気の至りですかね、
チキンレースでもやるつもりだったのか
直前で上手くかわして運転技術を誇りたかったのかわからないけど
そこは私の知ったこっちゃないのですわ。

でも言いたいのはクソガキへの文句…じゃなくて。

この件で気づいた事があるんです。

青信号にもかかわらず、周到にまわりを確認している自分。
自分の身を守るという点では良いことだけれど、
どう考えても理不尽で私に非がないケースにまで
相手の不正を想定内とし、そこから自分を守る行動パターンを無意識に繰り返している…という事。

理不尽慣れしているから、と言えばそれまでですが
これはつまり、相手のありえないミスや攻撃までも
私がカバーしている…という事でもある。

こんな生き方、消耗しますよね。
疲れないわけがない。

それに気づいたので
「背負い込むの、やーめた」と思いました。
そうしたら少しだけラクになりました。


ここからは余談。

バイクで突っ込んで来たクソガキのエネルギーを「感じて」みました(練習、れんしゅう…)。

クソガキ『青信号だからって安心しきって渡れると思うなよ?
女だからってキャア怖いとか泣いて被害者ぶってんじゃねーぞ?』
みたいな感じかな…

わぁ。なんという事でしょう。

「安全を信じきれず、男前な私」とガッツリ噛み合ってしまっていたのでした。

2015年6月18日木曜日

Sheer Heart Attack


心臓が潰れそうな気分。ハートがぺしゃんこ。胸のド真ん中を殴られてしまったよう。そしてそれを庇うように、猫背になっている。現に動悸がしていて、そこまでの年齢でもないのに…と思う。

普段なら念のため医者に診てもらうところだけど、
自分の中では理由が明確にわかっているから、今回は病院には行かない。

「みじめさ」。
その存在に気づいてしまった瞬間に、胸が潰れるような圧迫感と動悸が突然起こった。

たぶん、子供の頃からみじめだったんだ。
あんなみじめな思いを抱えて生きられるわけがないもの。
隠した私、グッジョブ!…と思いつつも
この難敵を前に途方に暮れる。
動悸も続く。
キングエンジン状態よ(←ドッドッドッ…てね。漫画の「ワンパンマン」より)。

あ~あ。どうしたらいいんだよ、こんなの。

2015年6月15日月曜日

怠惰な私の「何か」と、エゴの攻防


引き続き、ぐんにゃりしています。

正直に言うと、お風呂に入るのが億劫なほど。

でも「そんな事もあるよねぇ。まぁいいか」と思うと、却って動けたりする。

怠惰な自分をさほど責めずに過ごせていることは、私にとっては本当に大進歩なのです。


みちよさんの「ハートのスピリチュアルカウンセラー養成講座」も
気づけば6回目(全10回)が終わり、
この2か月半おっそろしいほど濃ゆい感じ。

先日の講座中にこのぐんにゃり状態を
ふとみちよさんにボヤいたところ、

「隠れたボスキャラに気づきそうで、それを隠そうとするエゴの作用だね」
とのアドバイスが。
さらに
怒りを出してしまったら今までの何かがムダになってしまう…という意識もある、らしい。

「らしい」などと他人事なのは、自分では実感がないからです。

なんだろう、どういう事なんだろう。
みちよさんが言ってくれることはいつもピンと来るんだけど、
まったくここは、わからなくて。

それだけ自覚すらしておらず、
自分でわからなくなる位に巧妙に隠してきたんだろうけど、
もしかしたらソイツの正体がそうせざるを得ない程に
脆くて弱い何かだからじゃないだろうか?

…とこれは、私のアタマで考えて出した「仮定」です。


自分の中にはものすごいドロドロしたネガティブな感情があり、
それを見たくないあまりにコンクリートで埋めて固めて生きてきたのが今までの私。

そしてそれがもはや「クソのドブ煮込み」であると降参し、
更には煮こごり状態のそれを
ほぐして癒して出してあげましょうね…と切開中&溶解作業中なのが今の私。
(お食事中のかた、すみませんm(__)m)

だからもう、
毒出しはむしろウェルカムで
何でも「かかって来て!」の覚悟はできている、と思ったのですが…

何かあるんでしょうね。


また泣くのかな、私は。
それでもいいや。
なんだかもう自分を見捨てることはできなくなっているし、
気づかないまま生きていくほうが辛いと、今は思うから。

いつになるのかわかりませんが、
コイツの正体がわかった暁には、このブログでも調査報告させてもらおうと思います。

よろしくお願いいたします。

2015年6月10日水曜日

罪悪感は魅力養成ギプスである


ここ数日、ぐんにゃりしています。

掃除もそろそろやらなきゃ…と思いつつ、手付かず。

今までなら間髪入れず自分にダメ出しをして
「なんで掃除くらいマメにできないんだ!ただでさえお前(私のこと)はダメなんだから、それくらいは人間としてやらなきゃダメだ!」と
自分を責める事によってむりくり動かしてきたんですが、それができなくなっている。

私は自分に罪悪感を抱かせることによって
色々と頑張らせてきたんだなぁと。

そう考えたら、私にとっての罪悪感とは
悪いだけのものでもありませんでした。
不本意なやり方ではありますが、
ちゃんと役に立ってくれていたんだなと思います。


最近、私が会う人たちの中に
この「罪悪感」という共通のテーマがあるのを感じています。

もちろん、経緯や原因は千差万別ですが
自分を責めてしまう人たちの、愛情深いことといったら!
おまけに優しくて、賢くて、そして強いのです。

もうね。こっちが感動して尊敬して泣きたくなりますわよ。
で、妙な話だけど、
好きにならずにはいられない。

罪悪感を抱いている身としては
のたうち回るほど辛いしソイツを切り離したくて仕方ないわけなんですけど
外から見たらわけもわからず魅力的だったりするんだね、コレが。

確かにしんどいのだけれども、
それが不思議と人間的な魅力にも繋がっていて。

だから、そんな自分も「アリ」ですよ。

「罪悪感、ダメ、ゼッタイ」だけだと
やっぱり息切れしちゃうから、
1%くらいゆるめて
罪悪感のある自分にもちょこっとだけ、
オッケー出してみませんか(*^_^*)

2015年6月4日木曜日

母にとっての私とは


母にとっての私とは何なんだろう。

愚痴のゴミ箱であり、憂さ晴らしの道具であり、
外では自慢の道具であり、「ワタシ愛されてる」のネタ供給元であり、無料家政婦であり、
しかし母の言葉によれば私は「家畜以下」であり。

私は「私」である前に、
人間ですらない、ということじゃないか。

こんな私が、どうやって生きる価値があるっていうんだ。

家畜として生きればいい?

冗談じゃない!

私は人間なんだ。
何のためにわざわざ人間に生まれたの?
喜ぶためだよ!
美味しいものをたらふく食べるため!楽しいことだってたくさんするんだから!

私は私を生きるんだから!

2015年6月1日月曜日

歪んだ愛


前回の、愛されたいがゆえに自分をねじ曲げてしまうことってあるよね、の続きです。

なんだかねぇ。
「愛されたい」ってコトバだけだと
いかにもゆるふわ女子って感じで私は抵抗があるのですが

正確には、世間でよく言う「愛」の認識が好きじゃない。

崇高すぎて上から目線の説教されたり、
愛情という名の下に他人を支配・操作したり。

そもそも漠然としすぎて、いや、実体験としてあんまりわからないからこそ
愛もどきがまかり通っちゃってんじゃないのコレ。

私はわからない。

でも、人間は愛される事をどこかで求めているからこそ誤作動を起こすんだろう、という事は逆にわかる。

認められたい、受け入れてほしいから頑張る的な社会的に前向きなものから
嫌われたくない、たとえ嫌われてもいいから私の事を気にかけて…と反抗する後ろ向きなものまで
どう行動に出るのかは様々だけれど
根っこに愛を求める気持ちがあるのは同じなのでは、と思う。

私はネガティブな形で、親からの愛を求めてしまいました。

感情をマヒさせてスイッチOFFにする…というやり方をしてしまった。

押し寄せる理不尽の波状攻撃から自分を守る手段としては、すごく役に立ってくれました。

しかし残念なのは、これがあくまでも子供の頃の自分が思いついた方法だということ。

ずっとそのままでは、いつか破綻するだろうことは想像に難くないのですが
これが生まれながらの性格なんだと自他ともに思い込むようになり
自分らしさを喪ったまま、私はオトナとしての現在に至るのです。