2016年5月4日水曜日

直感/「答え」を捨てる

先日、友人と話していて感じたことなのですが
直感からくるものを言葉で説明しようと思うと、すごく長くなってしまうなぁと。

たとえば、「なんでそれをやろうと思ったの?」と訊かれ、
それに対して「なんとなく(そう思ったから)」としか答えようがない場合。

そうしたものは直感から来ているとは思うのですが
明白な根拠や強い動機がないという点で
正確に説明しようとなると、ものすごく情報量が多くなってしまう。
実際、こまかいハナシの積み重ねでもあり
多くの、しかも一見関連のない要素の集まりから成り立っているからです。

自分の動機ひとつとっても、過去のいくつもの出来事や人間関係から生じているし
加えて私の場合、個人的なハナシを延々と言うのもなんだかなぁ、という抵抗感があります。

どこかで「質問が1つなら答えも1つに絞るべき」という思い込みもあったと思います。

そうした私自身の理由がありつつも、
相手の捉え方によっては「なんとなく、直感で」という返事が気分を害する場合がある…ということが
私には「とても恐い」のだと、
浮かび上がってきました。

(というよりは、より深い部分では「他人を怒らせることが恐い」のですが(^_^;))

さらに、「直感」を他人に言うこともあたしゃ恐いんだよ、ぶっちゃけ。

納得のいくデータもなければ正解もない。
一問一答というわけにはいかない世界。
自分には居心地よくてもまだまだ社会(?)にとっては「はぁ~?」な世界の、「直感」。

いつの間にかこれが自分らしさの一部になっていました(なぜならラクだからw)。

それが恐くて出せないというのは
私にとっては自己表現やらコミュニケーション全般にまたがる、範囲の広い問題がまだまだあるためで
原因もこれまた同じく、それこそバラエティに富んでおります。

…ということに、「答え」を探していた頃の私ならそもそも気づけなかったと思います。

答えを求めるということはそもそも問題の存在と対になっていて、
さらに言えばその「問題」のニュアンスとしては、「(あってはならないので)解決すべきこと」みたいな感じがするんですね。

(なので、「テーマ」とか「課題」と言い換えてもよいかと)

こうやって捉えていると、苦しいしかえって迂遠です。

ですが、人間必ず変われるし癒される。必ず。

焦ることもあると思うんです。
でも癒しに早いも遅いもない。
それに「問題がある」からすなわち「大丈夫ではない」と結論を出すのは違うデス。

…こういう、立証することができない世界のハナシでヤバいかな、と思うのは
盲信服従してしまうこと。

自然に「大丈夫」と思えるぶんには、本来気兼ねも遠慮もいらないのです。

逆に、その「問題」があると大丈夫と思えないのはどうして?と
自分の内側を探っていくと色々な思い込みに気づきやすいかもしれません。

そんなことを身近な、アンチスピリチュアルな友人たちに伝えたいなと思いながら
お手紙の気分で久々にブログ書いてみました。
(相変わらず理屈っぽいですが。笑)